とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

savamiso

<とまり木前夜>修作編⑩ 〜移住は準備しないとこうなる。


引っ越しが決まり、高円寺のアパートを引き払う手続きをとったところで、家さがしを始めたのは前に言った通り。インターネットで家さがしを始めて、うすうすながら重大なことに気付いた。

「家がないのである」

手元にデータがないので何とも言えないのだけれど、そのころ、小高は宿泊ができない状況であった。単純に考えても市の1/3に人が住めなくなっているわけで、しかも復興関連で多くの作業員が流入していたのだ。推し量るしかないのだが、相当の住宅不足だったように思う。とても仕事を辞めた夫婦に貸してくれる物件などありそうもなかった。不動産屋のサイトを眺めては「ご希望の物件はありませんでした」の文言を見て、溜息ばかりついていた。

すでに最終出社日から3ヶ月が経とうとしていた。働こうと思っていた復興支援系の仕事は「事業自体がなくなった」という返事で、仕事のアテもなくなった。そろそろ有給を使い切る。会社員の肩書きもなくなり、住所もなくなるとなれば、この国ではかなりヤバい。家のないプータローになりかけている。

率直に言って、このころ、私たちはお互いにピリピリしていた。私はといえば、話かけるたびに神経をすり減らしているくせに、些細なことで怒ったりもした。お互い、言葉もきつくなって、何かにつけてケンカしていた気がする。いてもたってもいられず新宿の都庁にあるハローワークに行った。工事や除染関連がほとんどで、あまり現実的な選択肢はなかった。

「これが現実か……」と、いままでいろいろと考えていたことが遠のいていくのを感じた。フリーでやろうとも思ったけど、縁もゆかりも物件もない場所で、フリーで食べていくことは、工事現場で働くことと同じくらい非現実的なことだった。この当時、まだ結婚もしていなかった。一人ならまだ無茶してもいいが、二人で生きていくのである。「何とかなるさ」でやってきたが、「何ともならない」ことがはっきりと見えてきた。

比喩ではなく、目の前が真っ暗になっていくのを感じた。並行して、いろんな送別会があり、激励のお言葉をいただくたびに「ははは。ありがとう、頑張るよ。仕事?家?まあ何とかなるよ」などとお茶を濁していたが、心臓がえぐられる気分であった。何とかなるわけがないのである。人に会いたくないと思う日もあった。

そんなある日の午後、妻がぽつりと言った。

「いわきにする?」

「おおおおお!その手があったか!」

目の前が急に開けてきた。明るくなっていくのを感じた。何で気付かなかったんだろう。いわきなら、何とかなるかもしれない。いま考えると、根拠らしい根拠もないのだが、だいぶ身体が軽くなるのを感じた。

そして、私たちは再びいわきに向かった。今度は住む場所を探すためである。(つづく)

【追記】
大切なことを言い忘れた。この騒動でひとつ、みなさんと共有したい教訓がある。
「次の住処を決める前に、退去手続きをとってはいけない」
本当に大変なことになる。

▶︎▶︎いままでの<とまり木前夜>はこちらで読めます。

-savamiso
-