とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

savamiso

消費は暴力だ。

2017/02/04


職場の社長が「モノの値段は人件費だ」と言っていた。素材や原料が高いとか、安いとか言っても、結局はそれを掘ったり、取り出したり、運んだり、売ったりしている人に払っているというのが理由。確かにその通りである。土地にしてもそうで、地球に金を払っているわけではない。突き詰めればすべて人件費なのだ。これはひとつの真実であると思う。

職場でそんな話を聞いた夜、「ザ・トゥルー・コスト」を見た。いわきでオーガニックコットンを作っている団体のイベントだった。映画は、ファストファッションの闇を淡々と(しかしそれだけに悲惨に)描いたドキュメンタリーで、どんな人間でもファストファッションと呼ばれる企業に嫌悪感を抱く。話半分でも、私はもうユニクロを着るのはゴメンだ。

前に書いた食の話からの、日中に社長の話があって(その間に実は、仕事でものすごい巨大資本を目の当たりにする機会があり)、さらにその日のうちにこの映画を見て、至った結論は「消費は暴力だ」ということ。「モノの値段が人件費」だとすれば、モノの向こうには必ず人間がいる。ファストファッションや、いい加減な食べ物は、その「モノの向こうにいる人間」を決して見せようとはしない。都合が悪すぎるのだ。彼や彼女らが訴えるのは、いつもあるはずのないイメージだけで、私たちはそのイメージに自分を投影する。その先にあるのは、ごく一部の人たちの利益だけで、それ以外には何もない。何もないだけならまだしも、人が死んだり、川や海が汚れたり、あるいは、私たち自身が損なわれたりする。

ここで「経営者はけしからん」と思うわけだが、実は違う。経営者が儲かるのは、私たちが買うからだ。悲惨な世界を作っているのは、消費者なのだ、私なのだ。鉄砲の弾では1人しか殺せないが、金はもっと多くの人を殺すことができる。はっきり言って、もう買うことが嫌になった。私は買っているようで、買わされている。選んでいるようで、選ばされている。

とはいえ、買わないわけにはいかない。というところが一番腹が立つのである。そして、生活の中でそれをいちいち調べたり、探したり、買いにいったりするというのは、日常生活の中では、かなり面倒なことなのだ。その手間と、自分の消費行動で誰かを傷つけているかもしれないという事実を突きつけられたとき、挫折感で途方に暮れる。

が、しばらく戦ってみたいと思った。買わされないよう、選ばされないよう。いち生活者として、どこまでできるのだろう。でも、やらないわけにはいかない。だって、相手はそんな私の弱みにつけこんで、甘い汁を吸っているのだから。できる範囲だけど、やれるところまでやってみよう。

というわけで、まずは生協パルシステムに入りました。皆さんも良い知恵があれば教えてください。

そんな感じで。

-savamiso
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