とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

megum

見通しの良い場所から


私の職場の最上階には展望デッキがあって、福島市内を一望できる。今日は朝から透き通るような青空で、通勤時にそこで黙祷しようと決めた。14:42にちょっと仕事を抜け出してデッキを訪れると、先客がいた。高校生くらいのカップルが並んでベンチに腰掛けていた。彼らも私と同じ考えだったようで、14:46にアラームがなり、それに合わせて黙祷を始めた。私はこっそり便乗した。14:47に黙祷終わりの合図のアラームがなった。男の子がぽつりと「一分って長いね」とつぶやいていた。そう、一分は長いのだ。10年前の14:46に起こった非常に強い揺れは、長いところで三分以上続いたとされる。震源に近い方々は、ほとんど永遠のように感じたに違いない。その永遠のような時間は、今日に確かに繋がっている。今日同じ時間を同じ場所で過ごした彼らは、10年前はまだ小学校に入るか入らないかくらいの年頃だったはずだ。ここでも確かに、10年という月日が確実に流れていることを知る。

2011年からの10年間、私は、宇都宮、札幌、杉並、いわき、福島と居場所を変え続け、仕事も何度も何度も変えた。一人だったのに結婚し二人になり、子供が生まれて三人になった。鈴木さんから木田さんになり、こうちゃんのママとも呼ばれるようになった。たくさんの人と出会い、さよならをしてきた。昨年からの新型コロナウイルスの流行もあり、10年前には想像できなかった世界を生きている。

2021年、福島市内に中古のマンションを買った。信夫山の麓にある築30年のマンションは、窓が大きく、風が吹き抜ける。引っ越しは2週間後。私たちはそこでどんな生活を送るのだろう。果たして10年後も福島市にいるだろうか。夫は45歳、私は41歳、息子は13歳。想像もつかないけれど、一日一日が積み重なった先にその10年後はやってくる。

さっきノートに書いた自分の言葉が気に入っている。私がしていることは線で結びつけるのが難しいくらいあちらこちらに散らばっている。でもその散らばっているものを少し遠くから、または上から眺めたらどうだろう。多分思いもよらない形になっているんじゃないだろうか。私の描く形はどのようなものなのだろう。今もその作画は続いている。おそらくずっと続いていく。誰かのために描いているわけではない。自分を納得させるために描いている。平面なのか立体なのか、モノクロなのか、色がついているのか、まだ自分でもわかっていない。完成するのかもわからない。いつも作成途中のそれを私は大切にしていきたい。評価されたい気持ちはあるけれど、でも自分がよければいいのだ。

この先もきっと何かに定まることなく生きていくのだろう。場所や仕事、環境が変わっても、在り方は変わらない、たぶん。いままで大事にしてきたものをこれからも大事にしていく。

今日3.11は目印ではあるけれど、ゴールではない。スタートでもない。明日からも気持ちをきちんともって、毎日を暮らしていく。

-megum
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