とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

savamiso

主語を大切にすること。


きのうは、普段からお世話になっている小松理虔さん、極上の刺身をつつきながら、やさしい自然派ワインを飲みながら、メディアやら文化やら魚やら子育てやらの話。メインはこないだの文化まちづくり会議の裏会議。こちらからは故郷の地酒を持っていった。幸せな時間だった。ここ最近、いわきの文化について語ることが増えてきた。前にも書いたけれど、面白くない街はないと思っている。

様々な場所や様々な立場で語られる「フクシマ」について話が及んだ。この場所を「フクシマ」にすることで、見えなくなったり、語られなくなっているものがたくさんあるのではないかと思っている。何も廃炉や放射能だけがこの場所ではない。「フクシマ」とはどこを差すのだろう。いわきも南相馬も双葉も郡山も会津若松も十把一絡げに語ることは、私にとってはほとんど意味がない。

だんだん気付いてきた。総体で何かを語ることは私にはできないし、やりたくもない。国民、被災者、移住者……。いろんな言葉があるけれど、集団が大きくなればなるほど、実際からは遠く、それでいてやかましい言葉になっていくような気がする。私にできるのは、ひとつひとつを聞き取り、よく見て、責任ある主語で語ることだと思う。

もうひとつ感じるのは、いったん震災や原発事故を置いときたいという気持ちである。街の面白さ、大きくはないかもしれないけれど大切な歴史、日々の人々の営みを語るとき、その要素を入れることで、本来語ろうとしていたものが見えにくくなったり、邪魔になったりする。それでも、この場所で何かを語ろうとすることは、放射能や原発は切っても切り離せないものになる。言葉の端々に滲むものなのだ。それは向き合うべきである。置いときたいけれど、置いとけないもの。それがあの事故なのだと思う。

主語を大切にすること。日常を見つめ続けること。行くこと、見ること、聞くこと、触れること、やること、続けること。何かを始めれば、誰かが気付く。何かを話せば、誰かが聞く。「何だ、難しくないじゃないか」と酔っぱらった帰り道につぶやいた。また、何かができそうな気がした。

写真は、こないだの文化まちづくり会議で配られた冊子。いわきは潮目の街だそうだ。去年、新聞に「境界考」という随筆を書いた。学生のころ、やけに境界に凝ったことがあった。境界は、分つ場所ではなく、繋いでいるところ。

小松さん、お招きいただきありがとうございました。

そんな感じで。

-savamiso
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