事件が時代を映すとすれば。
社会部の記者だったとき、事件取材をする意味について「事件は時代を映すからだ」と言われたことがある。それは確かに一理あった。私が取材したいくつかの事件も、いまという時代を少なからず象徴していたと思う。順番を間違えてはいけないが、事件はその時代の一端を示すのである。
それの言葉が正しかったとして、今回の事件はどう受け止めたらいいのだろう。その容疑者は「障害者は死ねばいい」と言って、凶行に及んだ。安易なことはあまり言いたくないし、まだ事件の全容が明らかになってない時点で言うのも乱暴だけれど「それが時代を映しているのか」と考えてしまう。
「あまりにも身勝手」と、テレビのコメンテーターは言うだろう。確かにそれはそうだ。しかし、誰かを身勝手というとき、言った人間が「まとも」であることが前提ではないだろうか。容疑者もまた、自分の言っていることが「まとも」だと思っていたのではないだろうか。少なくとも、衆院議長に宛てたとされる手紙からは、自分の考えについて少しも疑っていない。往々にして人は自分がまともだと思うとき、間違う。そもそもまともさなんて、誰も持ち合わせてないのではないだろうか。
「障害者は不幸」という言葉を聞いたとき、ちらっとでも「それはそうかもしれない」と思わなかったか。ニュースを聞いてから、自問自答している。そしてそれが時代を映しているのだろうか、とも思う。この事件が「おかしな人がやった犯行」とされるならば、それは自分が正常だと思っている人の、無関心でしかない。それもまた時代の一部であって、私はそんな時代を望まないし、必要なのは事実の解明だ。
被害に遭われた方のご冥福をお祈りいたします。
二度とこのような事件が起こることのないよう。