<とまり木前夜>修作編④
だいぶ更新が滞ってました。
というわけで、前回のつづきだが、東北に思いが募っていた。太宰治ふうに言えば、東北と言っても、私が知っているのは、青森といっても左半分の津軽地方。それから、夏休みに行った岩手。それから大館とか男鹿とかの秋田でも北のほうくらいのものだ。震災の被害があった沿岸部や福島はほとんど行ったことがなかった。
行ったことがないという意味では西日本はもっとそうなのだけれど、やっぱり東北に住みたいと思うようになった。そんな折(詳しくはmegumで書くと思うけれど)、妻が南相馬の小高にフィールドワークで行くことになった。
帰ってきてから、妻が言った。「福島に住みたい」と。
これですべてが決まった。次の住処は福島だ。南相馬の小高区だ。すごくシンプルだった。
小高をはじめ、福島、東北の被災地は「若い人が戻ってこない」とか、「課題が山積している」とか、いろんな言葉が新聞やテレビで決まり文句のように飛び交っていた。私もそんな原稿を書いた。そのたびに「もう必要なのは伝えることじゃないのかもしれない」と思うようになった。
「足りない」とか「大変」とか、そんな言葉を目にするたびに、東京で働いている自分に違和感を持つようになった。だましだましやっているような気がしたのだ。
もう震災から3年が経とうとしていた。被災地をめぐるニュースも、より込み入っていて、調べれば調べるほど、報道とは別の深い問題が浮き彫りになりつつあった。「報道は違う」「ニュースはこう言っているけれど実際は……」そんな言葉が、ネットでも出てきていた。
「伝える」ことが必要だったとしても、もう東京にいてはできることが限られてしまう。会社にいてはなおさらだった。私が入社した時に震災が起きたのだけれど、私の後輩で被災地に行った人はどのくらいいるだろう。いたとしても、ほとんどトンボ帰りだろう。それは、誰を責めるでもない話だと思うけれど、ニュースにされた方はたまらないだろう。どうして1日2日で、震災が起きてからの3年間なり、自分の人生を伝えることができようか。
というわけで、南相馬に住むことが決まった。この間、めまぐるしい東京の日々と思い詰めていた日々も重なって、少し体調を崩した。いま振り返れば、心を壊しかけていたのだと思う。致命的にはならなかったけれど、自分の身体について、考え直すきっかけにもなった。仕事は大切だけれど、命を削る仕事はない。季節はもう、秋になっていたけれど、季節の変化を感じることもほとんどなかった。ただ、私はまだ見ぬ東北を思い描いていた。