とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

savamiso

小さな変化に能動的でありたい。


日曜日はmimoroneの撮影で小高へ行っていた。久々に雨が降った。こっちに来てしばらくは、小高に行けば雨というのが何度か続いていたから、雨だと自然と意識するようになる。

そういえば、ある一定の場所を意識的に撮りためるというのは初めての経験かもしれない。自然と季節を感じさせるものに目が行く。小高神社も桜が咲き始めていて、もちろん目を引くのだけれど、何も桜だけが春の訪れではない。フキノトウもタンポポも雑草も。春を探そうと思うからこそ、いろんなものに気付ける。

こういう機会がなければ、自分は季節を感じていただろうかと思う。季節の変わり目や、日常の小さな変化というものは、意識しないと通り過ぎていくものかもしれない。

お蚕様を育て、小高の草木を使って、糸を染め上げるというmimoroneの営みは、自然を見つめ、敬い、それでいて能動的に関わる作業だと思う。一つひとつが繊細で、丁寧な作業の上に、この糸は創り出されている。草木が出す色の可能性は無限にあるけれど、引き出すのは人間なのだ。そんな人たちを傍で見ている。関われていることが本当に嬉しい。いろんな人に届いて欲しい。

そういえば昔、「東京ほど季節感を感じられる街はない」と、前に妻と話したことを思い出した。きちんと春が来て、新生活を応援する。夏はビールがよく売れる。最近では秋にハロウィンがあって、終われば街中がクリスマスになる。気がつけば年を越している。すべてショウウィンドウの中の話なのだが。

能動的にならないと、変化には気付かない。気付いても気付かなくても、絶えず変化しているものばかりだ。小高も、季節も、自分自身もそうだ。東京のような街は、気付かなくても教えてくれる。だからこそ、能動的に気付くことが難しかったりもする。と、こっちに来てから思う。

そんな感じで。

-savamiso