とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

megum

桜の木の下で

2017/04/12


日曜は小高に行ってきた。

今関わっているmimoroneという糸ブランドの作業のため、いつになく頻繁に通っている。
今の季節は自然の変化のスピードが驚くほど早い。

前回はやっとつぼみが色づいてきたかな、という具合だった小高神社のしだれ桜はほとんど満開で、下から見ると花が降ってくるよう。近くの土筆はもともとその場所にいたかのように堂々と生えていて、ふきのとうももうこれ以上伸びるのは無理だろうってくらい伸びきっていた。
その場所で毎年繰り返される季節の巡り。

用事を終えて、富岡に立ち寄った。
できたばかりのさくらモール富岡でお弁当を食べて、店内をぶらつく。
日常の中でコンビニやスーパーマーケットについて考える時間はどの程度あるだろう。そこにお店があるのは営む人がいるからで、普段だったら当たり前のことなのだけど、ここではその当たり前に心が動いた。
人が戻ってこられるようになった街に、戻ってきたお店。商売だからそれぞれの思惑や状況があると分かっていても、でも明るい店内に物が並んでいて店員さんがいて普段通りに買い物できることに私の気持ちは緩んだ。
平気だと思って通っていたけれど、車で通り過ぎていく景色から何かしら得ていて、知らぬ間に心は強張っていたんだと思う。

通り過ぎていく景色というのは、街並みや畑、田んぼ、その他の自然。日本各地にある景色なのにここだけ異なる景色。理由は人が一度離れた土地だから。
いわきから小高まで行くのにいつも国道6号線を北上する。距離は40キロくらいなのに2つの市と5つの町を通る。いわき市、広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市小高区。
このうち広野から小高までは原発事故直後から一度は立ち入りができなくなったことがある区間だ。6号線自体一度閉鎖されていて再開通したのは2014年秋。今も富岡町の北部から双葉町は自動車以外の通行はできない。この区間に人が暮らすことは許されていない。

福島県民、浜通りに暮らす人はこの現状と6年付き合っていて、たぶん慣れてしまっている。
私自身最初はフェンスで塞がれる家々や、積み上げられる汚染土の入ったフレコンバッグを見てただ落ち込んでいた。夫と一緒に車に乗っていてもこの区間は言葉数が少なくなった。でも最近は冗談を言ったり、スマホをいじっている間に過ぎ去っていく。最初は意識していた放射線量もいつの間にか気にしなくなっていた。

私たちふたりがこの道に慣れていくスピードと住民帰還のための諸々のスピードはほぼ合致している。
いわきに来てから2年の間にコンビニがいくつも出来て、交通量も増えた。通っているのはダンプカーばかりだったのに最近は家族連れの車ともすれ違うようになった。
今年の3月末から4月にかけていくつかの町と地域は避難指示が解除されて、スーパーマーケットやホームセンターもオープンし普段の買い物ができるようになった。

言っていることがめちゃくちゃだけど、ほっとしているのと同じくらい、この変化が怖い。震災前の日常の上に震災後の日常が覆いかぶさっていて、これは消すことのできない事実なのに、気付いたらなかったことにされてしまうんじゃないかって。何か大きなものに元に戻れと後ろからぎゅうぎゅう押されているんじゃないかって。

私は東日本大震災と原発事故の被害の当事者ではなくて、いきなり地元にいることを許されなくなったり、大切なものを失ったりしていない。だから勝手なことを言っているのかもしれない。
でも、このどうにもならなそうなものにちゃんと向き合っていたい。この怖さの原因を言葉で説明できるように伝えられるようになりたい。

こんな決意表明みたいなことを書くつもりではなかったけれど、書いておきます。


富岡の有名な夜ノ森の桜。まだ五分咲きで、満開になるのは今週末だろうか。ここでも勝手に季節は巡る。お花見に来ている人、歌を収録する人、スタディツアーの人、報道陣などなど、街の中でそこには人がいた。
桜並木を横切る立ち入り禁止のフェンス。人が住んでいい場所とそうでない場所を隔てる。
そんな分かりやすいもので区切ることはできないと知っているけれど、でもその分かりやすさを、私も含めて欲しているのだと思った。

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