とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

savamiso

<とまり木前夜>修作編⑭「経歴がすごいですね」


住む家も無事決まり、それからほとんど弾丸で2015年6月23日に引っ越した。これで一安心といきたいところだが、そうもいかなかった。私には、仕事がなかったのである。前に少し書いたが、アテにしていた復興支援系の仕事は、すでに「お祈りメール」が来ていた。もともと、受け入れ先のNPOが新しい事業を受託する予定で、それに関わる人員を募集していたのだが、事業そのものがなくなっては仕方ない。

当初は、移住した理由でもある「復興に関わる」「情報を発信する」ということにこだわった。よく見ていたのは日本財団の「WORK FOR 東北」やETICの「右腕プロジェクト」など。復興庁の人材バンクにも登録した。が、正直言って、これらの求人はあまり役に立たなかった。そもそも福島の案件が少なかったのもあったが、いわきに住んでいては現実的に通って仕事をするのが困難な場所が多かった。たまたま、そういうタイミングだったのかもしれない。

貯金がどんどん目減りしていく日々が続いた。ある日、被災した自治体である大学が研究所を設立するという求人を知った。調査研究と情報発信が目的だそうだ。「前職の経験も生かせる」と思い、応募した。どちらもその分野では自信があった。自分がどうして移住したか、きちんと話せば伝わるものもあると思った。そして、復興に自分の得意分野で関われるのである。

面接も上々だった。「これで一安心かな」と思っていたが、予定の期日を過ぎても連絡が来ない。嫌な予感がした。期日を過ぎているので、こちらから電話をかけてみた。
「すみません。事務手続きが遅れていて。申し訳ありませんが本日、不採用の通知を発送しました」
結構なショックだった。すべてが止まって、また1からやり直しである。実は、私はテレビ局の採用試験で一発合格だったので、採用で落とされるということが初めての経験だった。就活自体もあまりしたことがなく、ただただショックを受けて狼狽した。

落とされた理由はよくわからないが、いま思い返せば、面接官の一人が言った言葉を思い出される。
「経歴がすごいですね。うちじゃなくてもたくさん働くところがありそうだけど」
しかし、この時点で私は、この言葉の意味をよくわかっていなかった。

すでに、いわきに来てからちょうど1ヶ月が経過していた。貯金ももう、そこまで潤沢にあるわけではなかった。仕事に向かう妻を駅まで送り届け、ハローワークに行ったり、求人サイトを見たりして、焦っているのに、ぼんやりと過ごすような、心が落ち着かない日々が続いた。

同時に、私は対人恐怖症みたいになっていた。仕事が決まらないことには、いろんな人に無用の心配をかける。「仕事決まった?」と聞かれるのが怖くて、人に会いたくない日々が続いた。いちいち、自分が無職だと言うことが、とても億劫な上に、屈辱的な感じがしたのである。そう、プライドだけはあったのだ。それを指摘したのが妻だった。指摘されて初めて気付いた。

やりたいことがあるならば、仕事は何だっていい。やりたいならばやればいいだけの話だ。仕事はまた別の話だ。もう一回リセットしよう。何でもいいから、自分の時間が持てる仕事を探そう。やりたいことは、続けていって、いつか本業になれるようにすればいい。

気を取り直して、履歴書を書いた。復興支援系の仕事にこだわらず、地元の企業で、自分の経験が少しでも生きるような仕事に応募した。そうでなければ、多少給料が下がっても、残業が多くなさそうな仕事など。しかし、私は落ちまくった。理由はいつも同じで、ある人はあからさまにこう言った。

「この経歴からすれば、あなたはここを受けるべき人ではありませんよ」

八方塞がりとはまさにこのこと。私は、移住したこと自体を失敗だったと思うようになった。自分の経験を別な形で生かそうと思っていたのに、経歴そのものが邪魔なのである。同時に、誰にも必要とされてないのだと思うようになった。ある人は「春になれば市役所の経験者採用がある」と教えてくれたが、このままでは春になる前に野垂れ死ぬ。何でもいいから働きたかった。そして、季節はすでにお盆を迎えようとしていた。(つづく)

※写真は空になった東京の部屋。

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