書くことについて考えたことのメモ
4月になったということは、テレビ局の記者を辞めてから2年が経つということだ。何となく、古巣のテレビ局のニュースサイトを眺めていた。気になるのは中継だ。一緒に仕事をした人たちが、何を話しているのか、耳を傾けていた。
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記者業は大好きだ。天職だと勝手に思っている。どんな人間であれ、名乗れば記者というところもいい。最近は書くのを止められない感じがする。ネタは何でもよいというわけではないが、ただただ、話を聞き、文章を書き続けていたい。どうしてだろうと思う。ある種のスイッチが入っているのかもしれない。
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こないだ「あなたはいろんなことにいつも怒っている」と妻に言われた。「なるほど」と思った。記者に最も大切なもののひとつは「怒り」だと思っている。怒りが取材させ、怒りが書かせる。そのとき、文章は創るものではなくて、書かされるものだ。書くのを止められない私は、やっぱり怒っているんだろう。怒ることが多すぎるのかもしれない。そもそもここに来たのも、怒りだったと思う。
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テレビのニュースが、ネガティブに語られるようになってからだいぶ時間が経つ。それはテレビを見ている人が、世の中の不正や不条理に怒っているのに、その怒りを伝えてくれないからだと思う。なんだ、お前もあっち側か、私の怒りはどうしたらいいのかしら。そんな声が聞こえてきそうである。記者を名乗っているのに、実際にあっち側にいる人間もいる。かつて、私が尊敬している人だった。
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政治家にしてはいけない質問など存在しない。答えなくてもいい質問も存在しない。そもそも、政治家になった以上、プライベートも何も存在しない。すべて詳らかにされなくてはならない。国会中継を聞いていると「それ今回の議論と関係ありますか?」などと宣う閣僚がいるが、そんなことは関係ない。関係あってもなくても、答えるのがあなたたちの仕事で、だからこそそこに座っていれるのである。
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言葉は書くものではなく、書かされるものだと思うようになった。誰かの思い、かつてあったこと、自分の気持ち。それを表現するのに適切な言葉を、選び取っているに過ぎない。
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最近、とある場で、この上なく空疎な文章を目にする機会があった。思いのない言葉は、言葉としてまったく役に立たないということを学んだ。文字の羅列であった。肝に銘じようと思う。何事にも教訓はある。