とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

savamiso

<とまり木前夜>修作編⑦ 〜私たちは6号線をもう一度北上した。

2017/03/07


僕が福島から帰ってきて、それからもう一度、2人で東北の沿岸部を走った。今度は、ゆっくりいままで行こうとしていた場所を確かめるように6号線を進むことにした。会いたい人、行きたい場所を確かめて、アポが取れる人はアポを取って行くことにした。

同じようにいわきに降り、レンタカーを借りて(不思議なことにこれもワゴンRだった)、まずはいわき市内を回った。いわき回廊美術館に行き、アクアマリンふくしまも行ったはず。それから、日々の新聞社さんにも行った。優しく迎えてくれたのをいまでも思い出す。私たちは奇妙な訪問者だったと思う。

2015年の5月のことだ。実はまだこの時点でも、いわきに住むことなど、考えもしなかった。だけど、いまも続いている縁があって、書いていると不思議な気分になる。前後関係が混乱しそうになるのだ。僕たちがいわきに住むことを決めたのは、このとき訪れたよりも後の話なのである。回廊美術館はいまも大切な場所で、いわきを知らない人が訪ねてきたときに、まずは連れて行く場所である。日々の新聞さんは、このちょうど1年後、寄稿し、取材も受けることになる。

それから、私たちはさらに北へ向かった。小高に行き、ワーカーズベースで和田さんに会った。「場所を作りたい」という話をしたのを覚えている。そのころの小高はといえば、駅の自転車はまだ3月11日のままで、エンガワ商店はまだできていなかった。少しずつ時間は動いているのだ。

相馬にも行った。モリタミュージックというレコード屋さんがあって、そこで高田蓮さんと曽我部恵一バンドのCDを買った。「仕事、辞めない方がいいっすよ」と何度も森田さんに言われたのを覚えている。ちなみに、この時もらったモリタミュージックの缶バッジはいまもまだペンケースについている。

それから松川浦まで行った。松川浦はテレビ局にいたころ、震災直後に行ったことがあって、津波の跡を撮影したのを思い出した。真新しい港が目に付いた。沿岸部で真新しい施設や建物を見ると、反応してしまう自分がいる。風光明媚で「小松島」と言われた松川浦。だけど、僕はその松川浦を知らない。これから目にする景色は、すべて震災後の景色なのだと思った。

それから、僕らはさらに北上した。

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