とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

savamiso

決まっちゃったから争っている場合ではない。


きのうから、2020年のオリンピック・パラリンピックのおかしさについて考え続けていたら止まらなくなったので、ここでも書く。

朝日新聞の椎名林檎さんのインタビューを読んだ。彼女の考えていることがよくわかった。私は、以前から彼女のファンだ。もうかれこれ20年近く彼女の音楽を聞いていることになる。東京五輪にそもそも批判的だった私にとって、彼女がリオの閉会式のセレモニーに関わっていることが多少ショックだったのだが、このインタビューを読んで何となく、彼女のスタンスがわかった感じがした。全体的に、彼女の言うことはもっともで、いいこと言ってるなあと思うことも多々あった。

で、このインタビュー、東日本大震災との絡みから、東京五輪の開催そのものについて、疑問に思う人たちもいることに触れた上で、

 正直「お招きしていいんだろうか」という方もいらっしゃるし、私もそう思っていました。でも五輪が来ることが決まっちゃったんだったら、もう国内で争っている場合ではありませんし、むしろ足がかりにして行かねばもったいない。
だから、いっそ国民全員が組織委員会、そう考えるのが、和を重んじる日本らしいし、今回はなおさら、と私は思っています。

と締められる。

「ああ、なるほどなあ」と思わざるを得なかった。「決まっちゃった」から、「争っている場合ではない」のである。象徴的な言葉だ。こうして、五輪に疑問を差し挟み、見直そうとするエネルギーよりもずっとずっと大きなエネルギーでもって、五輪は推し進められるのだろう。

しかし、必ずそこには無理が生じるし、歪みや軋みが起こるはずなのだ。くだんの新国立競技場の若者の自殺は、その一端である。みんな商売だから「もう止めようよ五輪なんて」って言うよりも、乗っかった方が儲かるに決まってる。みんなどこかでおかしいと思いつつも「止めよう」なんて言えないのだ。

その先に、どんな未来が待ち受けていようとも、どんなにやっていることが間違っていようとも、一つだけ揺るがないのは、「五輪は絶対に開催する」のである。破滅に向かおうが、不正が行われようが、人が死のうが、誰かの気持ちを踏みにじろうが、である。止める方向には絶対に向かわない。

いや、確かに、良い方向に向かう可能性だってあるかもしれない。だが、現に人が死んでいるのである。多い少ないの問題ではない。人が死んでなお進み続ける平和の祭典とは、何なのだ。本当に馬鹿馬鹿しいと思う。こんなもので、未来が豊かで、輝かしくなると本気で思っているのだろうか。僕は最後まで言う。オリンピックなんて止めよう。みんな夢の力で死んでいる。

誰も止めようなんて言えなくて、人を犠牲にして、国中が「夢の力」と言って、進んで行く。70年前、日本にあったことと、似ていると思うのは私だけだろうか。「夢の力」を「八紘一宇」とか読み替えたらいい。五輪と戦争は相対するものであるけれど、それを進める力は大差ないんじゃないかと思う今日この頃。

そんな感じで。

-savamiso