食べることを取り戻す。
2017/01/29
先週、立て続けに食べることについて考える出来事がふたつあった。
ひとつは、旧平藩伝来の茶道の初釜にお誘いいただいて、お茶をいただいた後、「定石通りの懐石」というものを食べた。それは、確かに食べたのだけれど、食べること以上の経験だった。お茶を出すその動作や言葉一つひとつに意味がある。それだけではない。畳、床の間、茶器、その空間すべてに、お茶を振る舞い、お茶をいただくことの要素になっているのだった。茶道というものにまったく心得のない私にとってはかなりショッキングな世界で、最初はわけもわからず緊張して、少しわけを知るとその世界観にただただ呆然としていた。
懐石もそうだった。振る舞われた料理に一つひとつ意味があった。最後に教えられたのだけれど、掛け軸と花、そして使っていた箸で正月の縁起物である「松竹梅」を体現していたということ。驚いて、あっけにとられて、崩れ落ちそうになった。「食べること」「もてなすこと」を、ここまで考えて、しかも、こんなに粋に楽しむ世界があったのだと。
「こういうことを知るためには、古典を読む必要があるんですよ」と、帰り際、誘ってくれた方は言った。古典は、単なる読み物にあらず。私たちが豊かに生きていくための知恵なのだと知った。こういう世界のことをもっと知りたいし、やってみたいと思った。それは、私たちが生きていく上で、とても大切なことだと思うのだ。
ふたつめは、小名浜で「さかなのば vol.2」というイベントに参加した。「さんけい」という魚屋さんで魚をつつきながら地酒を飲み、魚屋さんと加工屋さん、料理人のトークを聞いて、福島の漁業について考えるというものだ。どの魚もおいしくいただいた。さんまのみりん干しの薫製は、濃厚な味。白いごはんが欲しかった。メヒカリがこんなにもふわふわした、とろけるような魚だとは知らなかった。刺身も新鮮で、歯ごたえが十分だった。故郷の市場とはまた違う魚がたくさんあって、魚は生き物で、住んでいる場所が違って、だから取れる場所が違い、水揚げされる場所も違うという至極当たり前のことを初めて考えた時間だった。
食べ物に限ったことではないが、モノの先に誰がいて、何があるのか。それを少し知っただけで、私は何も知らないことを自覚する。自覚した瞬間、これまた食べ物は食べ物以上の意味を持つ。
2つのイベントを通して、思ったのは「食べる」ということはきっかけに過ぎなくて、そこから広がる世界はこんなにも広くて、深いということ。何も知らなくても、食べることはできる。というか、できるようになっている。でもそれは、とても大切なことを見落としている。何も知らなくても楽に生きていける世界と、知った以上、多少手間でも選んでいける世界と、どちらを選ぶかと言えば、私は後者でありたいと強く思った。
良くも悪くも、食べ物は、自分の気持ちや身体に返ってくる。いい加減な食事の後は、いい加減な身体になっている。ちゃんとしたものを食べた後は、気持ちがちゃんとしている。食べることを、もっと自分の手に取り戻そうと思った。