とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

savamiso

<とまり木前夜>修作編⑥


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長野で合宿の免許を取った。それから善光寺や松本をふらふらしたのだけれど、僕は城下町のサイズ感が好きだ。当時は大都市だったのだろうけれど、いまとなっては手頃なサイズの街だ。僕が過ごした弘前もそうだ。街が積み重ねてきた雰囲気も嫌らしくない程度に伝わってくる。松本はまた行きたい街である。

それから、30歳になった。三十路になって、最初にしたことは取ったばかりの免許で、小高まで行ってみることだった。自分が住みたいと思っている街は、どんな街なのか。こうやって住む前に訪れるのは実は初めてのことだった。引っ越しは幾度となく繰り返してきたけれど、いつも家を先に決めて、徐々に街を知っていくことがほとんどだった。

朝、東京駅を出発するいわき行きの高速バスに乗って、いわき駅に着いたのは7時ぐらいだったと記憶している。駅前は人も車もまばらで「だいぶ印象の薄い駅前だな」というのが第一印象だった。当時から話題になっていた夜明け市場は誰もいなかったけれど、前夜の賑わいをどこか残していた。レンタカーを借りて、ピカピカのワゴンRで車を走らせたのは9時過ぎくらいだった。

よく晴れた、4月にしては暑い日だった。ひたすら国道6号線を北上した。いわきの四倉や久ノ浜まで来ると「ここから津波浸水域」という旨の標識が目につくようになった。4年経ってようやく、私はここに来たんだと思った。久ノ浜の海はとても穏やかで、キラキラと輝いていた。

広野町、楢葉町と進むにつれて、警察車両が増え、トラックやバスも多くなり、雰囲気はものものしくなってくる。震災当時、報道局で「避難指示区域」として私が書いたテロップの街を、実際に走っている。テロップを書いたことが、とんでもなく重いことをしてしまったように思えた。

福島第一原発に近づくにつれて、街は重さを増していった。建物は壊れたままで、人はいなかった。よく「あの日のまま」という表現があるけれど、伸び放題の植物を見ると決して「あの日のまま」ではなく、私に突きつけられたものはそれ以上だったと思う。

大熊町に入って、民家がバリケードで封鎖された風景を見て、気がつくと私は泣いていた。泣いて叫んでいた。何と叫んだかは覚えていないけれど、怒りと自分の不甲斐なさでいっぱいだったことは覚えている。何ができるかわからないけれど、何かをしようとすること自体は間違っていない。

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