とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

megum

読書の感想『リスクと生きる、死者と生きる』

2018/04/18


いわきに移り住んで2年が経って、体調のこともあって家に閉じこもる日々が続くなかで
実は「私はなんでここにいるんだっけ」と考える時間が増えていた。

縁もゆかりもない土地に、それまでの生活を変えてふたりで来た。いわゆる復興支援のような仕事には就かずに、街のなかにある会社で毎日仕事をしている。気付いたら周囲に頼れる人や親しい人ができていて、様々な活動に顔を出したり、協力したりするようになった。小さいながらも『とまり木』という冊子を出してみた。そして来年には、予定では家族が増える。

自分で手繰り寄せたようで、でもそんなことはなく、感覚としてはほとんど偶然だけで今がやってきたみたい。
それが嫌だというわけではないのだけれど、あれれ?となる。
ここでの生活、これで合ってるのかな?って。

ぼんやりとしながら、石戸論さんの『リスクと生きる、死者と生きる』を読んだ。
石戸さんに直接お会いしたことはないのだけれど、新聞社を辞めてネットメディアに移った人がいるというのは聞いていて
その独自の視点の記事がいつも興味深くて気になっていた。

そういえばいわきに来てから東日本大震災について書かれた単行本を読むのは初めてだ。
なんとなく、自分は現場に来たからそういう類いの本は読まなくても知っている、大丈夫と変な自信があった。
でもこれは読んでみたいと思ったし読んでよかった。

登場する一人一人に対し、当時から今まで何を考えどう動いてきたかが丁寧に取材されていて、
言葉や気持ちの揺れ動きもそのまま描かれていた。石戸さん自身の気持ちも含めて。
本書にもあるけれど、これらの揺れ動きは多分、単なる数字や象徴的な言葉の影にある本来のものだ。
ここに描かれた方々だけの特別なものではなくて、誰もがどこにいても持っているもの。
あまりにも大きな出来事のなかで、消えてしまいそうなもの。
不安定で明確ではないから、なかなか表に出てこなくて、でも本当ならば一番大切にしないといけない。

それを受け取るのは、ときにやっかいだ。
消えそうなくらい小さいけれど、知ってしまった責任が生まれて、扱い方にも気を遣う。
でも、その揺れ動きはそのまま自分のものになりうる。

そして思い出した。
私は震災で起こったことに対して何かしらの責任を感じて、
自分が行かないといけないと勝手に思ってしまったんだった。
当時そこにいなくても、でもいてもたってもいられない気持ちが生まれてしまった。
この気持ちを生じさせたのは、分かりやすい数字や言葉ではなくておそらく誰かの変化し続ける心。
それに従ってきたら今ここで生活していた。

あれこれ惑わされず、これでいいのかもしれない。
できる範囲で、私の周辺に漂うそれぞれのたくさんの気持ちに接する。
私は記者ではないけれど、それらに敏感に反応し、応えたいと思う。
「なんでここにいるんだっけ」の答えのようなものも、ここから見つけられそうな気がする。

あと、ずっと気にしていた震災当時福島に居た「当事者」と居なかった「非当事者」の境は
もしかすると曖昧なのかもしれない。
どっち側の人と区切るのではなく、混じり合っていきたい。
なんとなくその方が健全だし、ゆく先が少しだけ明るくみえる。

 

書名 リスクと生きる、死者と生きる
著者 石戸諭

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