<とまり木前夜>修作編①
2016/07/09
というわけで、いま、私たちはいわきに住んでいるのだけれど「どうして?」といままで幾度となく聞かれているので、ご参考程度に移住にいたるまでを書いていこうと思う。
いわきに来る前、私たちは東京の高円寺に住んでいた。私はテレビ局で記者をしていて、妻は通信会社で働いていた。私はといえば、5時前に家を出て25時ぐらいに家に帰る夜討ち朝駆けの生活を送り、携帯電話で呼び出され、抜いた抜かれた、切った張ったの日々だった。
参考にしようと思って、2年前の日記を読み返してみたのだけれど、胸が潰れそうになるほど、悲痛な言葉で占められていた。そう、たぶん私たちは限界を感じていたのだ。何かをすり減らしていた。私の生活も去ることながら、満員電車や高い家賃やその他もろもろ。それは月並みといえば月並みだが、東京で年をとっていくことに自信がなかった。
私のほうは私のほうで「記者」という仕事が向いていないと思い始めていた。夜討ち朝駆けに、ほとんど意味を見いだせなかったし、取材しても、記事を書いても、伝えるべきものを伝えていないという気持ちが日増しに大きくなった。日記にはこう書いてあった。
こんなに書くべきことが身の回りで溢れているのに、誰も書かないし、取材もしない。この国のマスコミの在り方とか報道とは、とか、そんな大それたことを言うつもりはない。ただ、いま感じているのは、僕が記者に向いていないんだということ。行きたい場所に行き、会いたい人に会い、書きたいことを書く。それが僕のやりたいことだ。
「メディア」は絶対に必要で、どんなに非難されようともその存在意義や働いている人を簡単には否定しない。私がその世界に向いていなかっただけの話なのである。
来年には30歳になろうとしていて、私が入社したのが25歳。そのときに「30歳になったら、人生について真剣に考えてみよう」と考えていたことを思い出した。
とりあえず、どうなるかわからないけど「東京を離れてみよう」ということを私たちは決めた。もう時効だと思うし、日付にあまり意味はないと思うけど、2014年5月7日の話だ。遅いゴールデンウィーク、高円寺の焼き鳥屋さんだった。
そんな感じでつづきます。