とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

megum

読書の感想『こんな夜更けにバナナかよ』

2018/11/20


うちの作業部屋には私の身長より大きい本棚がある。夫と私二人の共有しているので小説、ノンフィクション、エッセイ、図録、絵本など本当に様々なジャンルの本が並んでいる。お互いの本を読むことはあまりないのだけど、その本棚の中でずっと気になっていた本があった。
タイトルは『こんな夜更けにバナナかよ』。
北海道が舞台の、筋ジストロフィーの当事者と、その人を支えるボランティアたちのノンフィクションだそう。変なタイトルだなと思いながら長い間手に取らずにいた。

先日本屋さんでその本の文庫が平積みされているのを見つけた。帯をみるとなんと大泉洋主演で映画化されるらしい。北海道の映画といえば主役を演じるのは大泉洋、となっていて出身地でそこまで仕事が回ってくるのは本当にすごい。ずっと気になっていたし、いい機会だと思い、家に帰ってから読み始めてみた。

読み進めていくと、それがとても面白い。人の障害の話なので面白いという表現はどうかと思うのだが、でも面白いのだ。人ひとりが生きていくのはこんなにも濃密で複雑で興味深いものなのだとは知らなかった。
主人公は小学6年生で筋ジストロフィーと告げられた鹿野靖明さん、40歳。当時はほとんど不可能だと思われていた、人工呼吸器をつけながら病院や施設ではなく在宅で生活をしている人だ。彼の周りには自身で手配した大勢のボランティアスタッフ。24時間365日常に彼のそばに誰かしらが居て、生活を介助する。
障害者の人を取り扱う物語によくあるような単なる感動ものではない。本の中には考えも及ばなかった世界が広がっていた。

健常者の側からみた障害者への無意識の感覚。知らぬ間に生じている主従関係のようなもの。障害者の介助は家族が行うことが当たり前という世の中の認識。鹿野さんはそういう事柄を全て取っ払い、障害者が自立した生活を送ることができる社会のために、我が身を実験台として生活を続ける。
ここでの自立とは「自分で収入を得て自分でなんでも行えることではなく、自分の人生をどうしたいかを自分で決めること。そのために必要な支援を社会に求めるのは当然の権利である」(エドワード・ロバーツ)
鹿野さんは若い頃この言葉と出会い、日本で生まれ始めていた障害者運動に参加することでその想いを確かなものにしていった。

施設を出て自ら生活をしていくことで見えてきたのは、在宅福祉制度の未熟さ。そしてボランティアとして集う人々の多様さ。
さまざまな人々と体と心で関わり合いながら、一日いちにちを確実に生き続けた。

文中で印象に残った言葉がある。
「一人の不幸な人間は、もう一人の不幸な人間を見つけて幸せになる」
健常者のボランティアにとって、障害がある鹿野さんは不幸な人間なのだろうか。鹿野さんによってボランティアは幸せになるのだろうか。
健常者イコール幸福、障害者イコール不幸、本当に?
私はそうは思わない。そもそも人が幸か不幸かは他人が決めることではないし、ある一面だけで判断できるものではない。
でもこの言葉はどうしても心にひっかかる。これまで生きてきて、そんな風に思った瞬間がないとは正直言えないから。
自分のなかにある「障害者」とされる方々へのなんとも言えない感情はどこからくるのだろう。
勝手に区切って隔たりをつくっているような気がする。私こそ、ある一面でしか見れていないんじゃないか。
すっきりしないこの思いを大切にしたい。モヤモヤして気持ち悪いけれど、でも捨て去らずに日々を過ごしたい。いつかどこかのタイミングでそんなことを考えていたな、と思える日がくるといいな。

この物語は1990年代後半から2000年代初頭にかけての事柄なのだけれど、私も確かにその時期を過ごしてきた。私の生きてきた時間を、ここに登場する人々もそれぞれ生きてきた。その単純な事実に驚く。この世界を教えてくださった著者の渡辺一史さんに感謝します。

書名 こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち
著者 渡辺一史

-megum
-,