とまり木

時には枝のように、時には鳥のように

savamiso

<とまり木前夜>修作編②


倉敷ジーンズ

夏休みの岡山で「倉敷デニム」

というわけで「東京を離れる」と決めた私たち。

しかし、その行き先はまだ決まっていなかった。

折しも、東京はオリンピック一色になりつつあった。東京でオリンピックを開くということに、何か大きな合意形成があったわけではない。誰かが言い出して、誰かが決めた。多くの人の違和感を押し流して、決まった。そこに小さくはない反発もあった。私なりのささやかな抵抗である。

私はぼんやりと東北に思いを馳せた。震災と原発事故のあと、いつかは東北に戻ろうと思っていた。「記者」には向いていないけれど、まだまだ行きたい場所があり、書きたいこともたくさんある。しかし、すぐには「東北に行こう」とはならなかった。むしろかなり逡巡した。震災から3年が経ち、いまから行ってもできることは多くないと思っていたのである。

災害や政変、事件事故など、大きなニュースが起きたとき、記者は「その時どこにいて何をしていたか」というのを重要視する。つまるところ「現場にいたか、いなかったか」ということが最も大事なのだ。現場にいた人間が一番偉い。その現場で見たこと、聞いたこと、感じたこと以上に勝るものはないのだ。

その考え方からすれば、もうとっくに時は過ぎていた。確かに震災直後、私は福島県庁で取材をした。だけど基本的にはそれっきりである。政治家の同行で何度か行ったことはあるものの、口が裂けても「被災地で取材をしました」とは言えないような代物だ。

それではどうするか。私の関心は西日本に向いていた。ちょうどそのころ、山陰や瀬戸内では、同じくらいの年齢の人たちの取り組みが注目を集めているところだった。いまでも「移住」とか「地方暮らし」とかキーボードを叩けば、そういう記事が出てくる。記事を読む限り、彼らの都会への違和感はとてもよく理解できたし、できることもある気がした。そして、少し休めそうな気がしたのだ。

最終的に東北に行くという考えは変わらないけれど、身体を休め、ものを考える時間が必要だと思った。東京ではない場所で、東京を眺めたかった。東北ではない場所で、被災地のことを考えてみようと思った。それならば、限りある人生、まったく縁もゆかりもない場所で過ごすのも悪くない。

そういうわけで、次の住処を探すべく「移住相談会」に行ってみたり、夏休みを岡山で過ごしてみたりした。東北とは違う、明るい雰囲気の人たちが多かった。課題はあれど、それを受け入れ、進んでいる人たちがたくさんいた。そんな人たちに出会うたび、家に帰っては「ああでもない、こうでもない」と日本地図を広げながら妻と話していた。相変わらず忙しい日々だったけれども。

そんな感じでつづきます。

 

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